紀州 竹本家のルーツを探す!!

紀州 竹本家のルーツ調査していきます! 又母方の先祖 雑賀一族 など気になったとこをどんどん調査していきます!

今更ながらあけましておめでとう

 

こんばんは

ほったらかしにしてきたブログ 久々に書きたくなってきたので 頑張って書きます😪

 

2020年もあっという間に終わり 2021年に突入しましたね。 令和も早いもんで3年目 

僕は今年で26 もう30が近づいてくる:(´◦ω◦`):

 

去年から テレビやら世間は コロナコロナで 

飽きてきました明るいニュースがみたいと思う日々です 

そんな世の中でなかなか 連休とかあっても遠出することも出来ず 近場をウロウロとしております

近頃は1人ドライブで地元の観光スポット巡りしてますf:id:takeken831:20210213195551j:image
f:id:takeken831:20210213195546j:image
f:id:takeken831:20210213195541j:image

1枚目は那智勝浦町那智の滝の裏にあると言われている宝龍滝

2枚目は紀州鉱山跡地 昭和の時代に栄えた鉱山地です

3枚目は御浜町河津桜です

 

てな感じでウロウロ散策中です…

 

 

これまでの竹本家の調査報告

ここまでの父方竹本家の先祖調べのまとめ

 

父方 竹本家は 本籍地が那智勝浦町庄であること

 

戸籍では4代前の高祖父が戸主だった時まで遡れた。

その人物が竹本與平次 天保2年生まれ

曽祖父は竹本與三兵衛 明治10年生まれ

祖父は   竹本勝治  明治38年生まれ

 

曽祖父まで與 が名前に付いていることから竹本家は代々與を通字にしてきたのだろうか?

他の親戚の墓石には與三次 與平 與右衛門

 

生まれた時には祖父は100歳を超えており 実際に見ることは出来ず 写真や父親の子供の頃の記憶でしか人物像を想像することができない、、

 

不思議なことに高祖父 曽祖父ともに次男であり戸籍には長男の記載がなかった。

明治19年式戸籍ができる前に亡くなったか結婚して本籍から外れたのだと推測する。

 

戸籍では高祖父の父親の名前まで判明しておりその名前も竹本與三兵衛である ※墓石では与惣平

曽祖父と同じ名前なので襲名させたのかな?

安政5年に亡くなっており 78歳と彫られていたので

生まれ年は1781年になる

高祖父の祖父も名前が竹本與三兵衛 墓石には菊紋が彫られている 文政2年没(1819年)なので200年前の墓であるということ

f:id:takeken831:20200701021217j:image

これは言伝えでは家紋らしい。

実際なところ江戸時代までは一般庶民でも菊紋は自由に使えたみたいなんだけどどうなんだろう?

木地師だった家も菊紋だったってサイトで見たけど。

 

並んでる墓石の中で 最も古いのが元禄14年と宝永5年と

 

f:id:takeken831:20200701021238j:image

どっから運んできたのであろうか…

というかどうやって地面に突き刺したのか気になる一方多分これこそいちばん古いのではと思うばかり。

宝永5年の墓に関しては笠塔婆で信女になっているので村に貢献した人なのか??

f:id:takeken831:20200701023716j:image

でも墓石の色が肌色っぽくて100年もたってないような作りな気が せんでもない…?

父親情報 

①代々 百姓だった

           ↓

百姓や農民で300年前から墓を建てるというのは多分ありえないので自分の中では庄屋・豪農・地主だったと思ってる。それか元々地侍とか豪族で帰農したか?

②自分の家系が本家本元

③大昔(多分江戸時代)殿様?侍?を家に泊まらせた

    そのお礼に刀を貰った。

 

④父親 幼少期 庄区には竹本姓が3軒あった

                             ↓

曽祖父の姉は別家から婿養子を取っており娘がいててその嫁ぎ先も竹本家となっている、竹本家同士で婚姻関係になったことから関係性は濃くなったもののそれ以前の関係性は不明 

その竹本さんに先祖の名前と戒名の書いた紙を頂いて初代まで判明したものの本家とどこで繋がるのか… 解明したいものである。初代は幕末頃に亡くなっており女の人が初代だった。

中には神社の氏子をした人もいた

3軒目の竹本家は本家との関係性は全く不明

先程説明した分家と近い関係に当たるらしいけど

詳しいことはわかってないらしい。

この分家の竹本さんに過去帳のコピーを送って貰ったら  なんと1700年代前半から記録されててこれは貴重な資料だと思った😢(写真は撮ってない)

f:id:takeken831:20200702222102j:imagef:id:takeken831:20200702222106j:imagef:id:takeken831:20200702230154j:image

↑は墓石調査等で戒名・没年・享年を書き写したノート

 

⑤そのまた昔 庄区は竹本と高出の2軒しかなかった。

 

⑥庄地区の墓地は中山という山の麓にありかつて戦国時代は 山頂に中山城という城があった。

築城したのは政所氏

 

竹本家の墓は墓地の中でも上のとこにあるから

村の中でも裕福な一族だったのかも?

位置とか場所関係あるかわからないけど💧

 

山を登って下のとこにも竹本家の祖先の墓だと伝わっているらしいのがあるこれは

墓地の真ん中にめっちゃ大きい木の下が聳えたっててその下に(樹齢百年以上経ってそうな)5つほど並んでいる墓があるんですけど

f:id:takeken831:20200702223450j:imagef:id:takeken831:20200702223524j:image

1番左の墓は辛うじて字が残ってて何年か前に父と磨いて綺麗にしました。ヤフー知恵袋で質問したら

三角頭型墓石と言って武士階級である事は間違いないとの事でした。年号も寛文だから1660年代ですよ…  あとの4基は風化が酷くダメでした。

 

でも自分の中ではこれは竹本家の祖先ではなくて

かつて庄村の荘官だった政所一族なんじゃないか?なんて思ったりする。

 

江戸時代後期に編纂された紀伊風土記によれば庄の名前の由来は戦国時代に荘官だった政所氏の居があったとされ 名前が起こったとされる。

 

政所という名字は那智勝浦町では下里や太田の南大居に多い苗字でありながら出自などはわかっておらず。

 

これが本当に竹本家の直系の祖先であるのであれば

より一層謎深まるしなんかわくわくする感じにはなるけど(笑)  

墓地のど真ん中にあんなでかい木が植えられたのも何かしら理由があったはず。

木の周辺を掃除したら何か出てきたりしないかなとか思ったりもする(笑)

 

⑦庄区の中で竹本家が1番古く田んぼも多数持っていた。

 

この7つが父親からの情報で後付けは自分が調べて思った事です。

 

あと曽祖父のもう1人の姉が嫁いだ親戚の家に

高校時代 話を聞きに行ったことがありその家の歴史にまつわる過去帳ぐらいの大きさの本?を見してもらった事がある。そしたら驚いたのが江戸時代に備前だったか備後だったかそこから移り住んだって書いてあってええ!!?ってなってなんか感動というかとにかく凄いと思いました😅

 

江戸時代 紀州藩の家臣にも竹本家があってこれは

三河国発祥 らしいけど関係性はないかも…

 

菩提寺には明治からの過去帳しか残ってないし

父親の実家は小学生の頃に火事で焼けてしまい先祖代々の過去帳と位牌も無くなり、

残ってたらめっちゃ興味津々で見てそう(笑)

 

新宮市那智勝浦町に親戚以外にも竹本姓が十軒くらい住んでて聞きこみ調査とか手紙とかめっちゃしてみたいんやけど恐れてしまうのでしたくてもできない😅

庄村が仮に江戸時代に竹本家発祥したとして各地に散らばったなんてこともないのかな?

最近Twitterのフォロワーさんが手紙を送ったら返事が来たとかフォロワーさん同士の祖先が繋がったとか見るので羨ましすぎる…

 

 

というか和歌山県で先祖探ししてる人まだ出会ったことないし見たことないな🤔

 

これからも先祖調査頑張ろうと思います🙇‍♂️

父方の祖母の父方奥村家 母方伊藤家について

ここ数ヶ月 父の祖母の父方の奥村家と母方の伊藤家について調べていたところです!

ここ少し進展がありましたので経過報告です!

 

祖母の父方 奥村家なんですが本籍地は福島県福島市平石字八郎となっています。

 

ツイッターで情報収集をしていたところまさかの嬉しいことに実家が平石に住んでいたいう方からDMが届きました。 ちょうど時期が3月の彼岸の時期だったので 墓参りの際に母親に奥村さんが住んでいたか聞いてくれたようです そしたら墓を案内してもったようで写真も撮ってくれていました。

 

 

f:id:takeken831:20200503185040j:imagef:id:takeken831:20200503185036j:image

 

奥村家先祖代々の墓として建てられていて

昭和45年 奥村一 建立となっています。実はこの人は祖母の父親つまり曽祖父に当る人物です。

これはかなり嬉しかったです。家紋が一見見たことの無い家紋でした ネットで調べても出てこなかったのでYahoo知恵袋で聞いてみたところ

奥村氏は3つの系統があり清和源氏頼光流、平氏支流、清和源氏頼親流らしいです。

中でもこの家紋は「釘抜座に梃子」との事で清和源氏頼親流奥村氏の系統かもしれませんと回答を頂きました。 この系統の奥村家に奥村幸忠という人物がおり由井正雪の企て(由井正雪の乱)を松平信綱に訴えた人物だそうです。

しかしDMをくれた方の父親も昔に先祖の家系図を作っていたらしく聞き回った際に奥村家の親戚であろう阿部さんに聞いた情報によると、「源義経に追われて飯坂の佐藤庄司(基治)の元に来て、合戦になったが負けて落ち延びた武士」が奥村家と聞いたそうです。

いまもその本籍地に奥村さんが住んでいるのか調べてもらったところ別の人が住んでいましたm(_ _)m。

 

そして曽祖父に当る奥村一さんは福島市八郎から30km離れた山形県米沢市板谷に住む伊藤ハルさんと結婚することになるわけです。曾祖母の伊藤家についてもツイッターで情報収集をしました!

まず本籍地は山形県米沢市紺屋町という所でした。

Googleマップで調べても出てこないネットで調べても出てこないので最初は苦戦しました💦

 

ツイッター米沢市紺屋町について知ってるいませんかと聞いたところなんと有難いことに直ぐに返信をいただきました!。

f:id:takeken831:20200503191745j:image
f:id:takeken831:20200503191749j:image

なんと紺屋町は米沢城の城下町だったことが判明( ºΔº )紺屋というのは染め物屋を指した言葉とのこと。伊藤家は染め物屋のルーツか?? 紺屋町は現在の米沢市本町にあたるそうです。

 

そして何故か米沢城下から離れた福島県寄りの板谷集落で暮らすことになるみたいですが、

どういう経緯でそうなったかはわかりません。

 

今後の発展に期待します。

家系図活動

 

 

最近なかなか家系図調査が進みません

 

父方は竹本家  本籍が那智勝浦町

竹本家は1番古い墓石が元禄で 自分の調査経過では6代前辺りまでの文政の先祖まで名前と関係性がわかってます 

江戸時代 紀州藩士に竹本家がありますが関係性はないに等しいかも、、

祖父の母親は河端家 同じく那智勝浦町

 

父方の祖母は奥村家 本籍が福島県福島市平石字八郎

祖母の母親は伊藤家 本籍がおそらく山形県米沢市板谷

 

東方の方の奥村家・伊藤家についての情報は全く手がかりがつかめていません。

 

 

母方は 中村家 

母方の祖父の母は 更家(さらいえ)家 ともに本籍地は三重県御浜町上市木でした

 

母方の祖母は山本家 本籍は新宮市三輪崎

母方の祖母の父親は雑賀家 本籍は新宮市新宮

 

母方の祖母の父親は 雑賀家から山本家に入夫婚とという形で婚姻と書かれてました

 

どうやら戸籍を見た感じ祖母の母親は女兄弟で長男もいたものの早くに亡くなってしまい長女ということで家を継いだ感じです。

 

雑賀と聞くと 雑賀一揆で有名な雑賀孫市こと鈴木孫市を思い浮かびます 

雑賀衆豊臣秀吉に破れたあと地方に散っていったとか、、

現に三重県熊野市有馬町のお寺に雑賀孫市終焉の地として供養塔が建てられています。

 

これらの情報を元に SNSで皆さんのから情報が得られたらいいなと思っていますどうかお願いします(TT)

自分の身内や友達 知り合いなどにその苗字の人いるって人 ちょっとでも情報知ってるよって人いればこちらまでお願いします。shinsho10831@gmail.com

#家系図 #先祖 #先祖調べ

初めまして!!

 

はじめまして! たけけんといいます

 

野球と音楽 歴史が好きな24歳 です!!

 

前にもハテナブログしてたけど一旦やめてました

理由は アメブロもしてて芸能人のブログ読むのに

わざわざそっち使ってるんやったらこっちで書くのめんどくさいとかetc.....

 

けどこっちの方が 見やすいかなとか思ってり

知名度も低いし?? でもコメント来るか心配ですね

書いてくれた方が嬉しいし色んな人の思ってることを聞きたいと思ってます。 書いてくれるようなブログの内容を書かないといけないんですけどね。

 

読者が1人でも増えたらいいなーって 願います

興味を持って貰えるように がんばります🙌

 

 

主にブログの内容は 野球と家系図のことになってくると思います おそらく🤔

 

特に家系図に関しては 1700年頃から始まる父方 竹本家  お墓でいちばん古いのが元禄 ってあるんだから

1600年代から住み着いてるってことですよね…

 

武士から帰農して百姓になったんかなーとか想像してしまいます、、  今は菩提寺過去帳の依頼してて返事待ちです。

 

母方は よくある名字で 中村で 祖母の旧姓は山本です

ですが戸籍を取寄せてみると… 祖母の父親が 山本だったわけでなく入夫婚をしていました!

それで入夫婚する前の曽祖父の姓が雑賀だった事が判明しました😲 雑賀と言えば 戦国時代 織田軍が紀伊へ攻めてきた時に雑賀衆を率いて戦った 鈴木孫市(雑賀孫市) が有名です。 この時に雑賀衆は織田軍に敗れ 各地に散ったとWikipediaに書かれていました。

 

その一族が 新宮まで来てその子孫だとしたらロマンがありますね、、

 

ですが曽祖父の父は他家からの養子だったので直接の血筋は途絶えたという事になりますね?

 

でも雑賀ってきくだけで歴史好きの自分からすると

ゾクゾクするというかワクワクするというか笑

 

これからの進展が楽しみです!!